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神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会

ニュース「いかり」9号 2004年7月18日発行

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「いかり」は港の象徴である錨であり、強制連行され、神戸港で労働させられた朝鮮人や中国人の怒りでもあります。この二つをイメージするものとして、会のニュースの表題にしました。

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「神戸港調査する会」の単行本、あいつぎ刊行

1、3月に出版記念講演会を開催

 

ジョン・レインさんを中心とした3月の講演会風景

 

 昨年より編集・出版を進めてきた論文集『神戸港強制連行の記録−朝鮮人・中国人そして連合軍捕虜』、および副読本『アジア・太平洋戦争と神戸港−朝鮮人・中国人・連合国捕虜』が、1月末にそれぞれ明石書店、みずのわ出版から出版された。それを記念して1月31日、神戸学生青年センターホールにて出版記念講演会を開催、論文集や副読本の執筆者それぞれの講演とともに、「神戸港調査する会」のメンバーでもある朴明子さんに一人芝居「柳行李の秘密」を演じていただいた。

 続いて3月にはジョン・レイン著・平田典子訳『夏は再びやってくる』(学生青年センター出版部)が完成、3月13日午後2時より、神戸学生青年センターのホールにおいて出版記念講演会を開催した。この日「神戸港調査する会」の安井三吉代表の開会あいさつに続き、同じく調査する会の平田典子氏が「ジョン・レインさんと神戸捕虜収容所」、恵泉女学園大学教授の内海愛子氏が「日本の捕虜生活」、元オーストラリア兵捕虜のジョン・レイン氏が「神戸捕虜時代をふりかえって」というテーマで、それぞれ講演を行った。ジョン・レインさんはこの日の記念講演会のために、持病をおしてわざわざオーストラリアから駆けつけて下さった。

 本号では3月の出版記念講演会から、ジョン・レイン氏および内海愛子氏の講演を収録した。なお、内海愛子氏の講演記録は、紙面の関係から若干部分を割愛した。

 

神戸捕虜時代をふりかえって

ジョン・レイン

 こんにちは、「グッダイ」これはオーストラリアでの「こんにちは」という挨拶です。

 私の著書である「夏は再びやって来る」の日本語の訳本が出版された、この特別な日に、私が皆様とともに同席できることを心よりうれしく思っております。この本は、私が大日本帝国軍の捕虜として3年半、そして皆様の愛すべき神戸の街で過ごした2年ほどの私の経験を記したものです。

 

 1943年6月神戸へ

 しかしながら、1943年6月当時、1部ではありますが、私が見た神戸の街というのは現在の様子は全く違ったところでした。

 我々の捕虜は、シンガポールから貨物船に乗り、日本への移送途中で、アメリカの潜水艦の攻撃から幸運にも、命からがら逃れることができたその悲惨な航海を経て、「門司」に到着したオーストラリア兵300人のグループでした。門司到着後は、まる1昼夜、列車の中で過ごしたのですが、その間、閉じ込められていた状態だったので、ほんのわずかしか眠ることができませんでした。

 そして翌朝8時30分、我々は「神戸」に到着し、「仲町通り」まで南へわずかな距離を行進したのち、「運動場」のようなところで集合をしました。

 人の人生には確かに、一生忘れることのできない「苦渋」の時があると思うのですが、私にとって1943年6月8日がまさにそうでした。私は、その日を決して忘れることはできません。

 我々はそのとき、すでに16ヶ月ものあいだ、シンガポールで捕虜として過ごしたわけですが、さらに今度は、一般の日本人からは一体どのように扱われるのかというその不安をもちながら、敵陣である日本本土内にいる自分がいたのです。まずは、大日本帝国軍の兵士たちに管理され、予測もできなかったような、猛烈なカルチャーショックに耐えなければなりませんでした。

 1昼夜の眠ることもできない苦痛の列車での移送を経てようやく運動場に到着し、各々の小さな荷物を足元の芝生の上に置いたときには、我々は、速やかに施設へと案内されて、疲れを癒すよう体を横たえ、できることならちょっとしたご馳走を与えられることを期待していたのです。ところが、現実は、まったくその逆のことが起こりました。

 あっという間に、我々の真正面に演台が置かれ、刀を腰にぶら下げている日本兵がそこに上がり、威厳を示すかのように、通訳を通して訓示を初めました。

 我々捕虜は、戦場で死ぬことを選ばず、不名誉にも降伏したにもかかわらず、大日本帝国軍の慈悲により命が救われている、だからこれからは、日本軍と同様の規律に従わなくてはならないということを言われました。今後すべての指令は日本語で行われることが言い渡され、早速我々はその場で日本語の番号の号令訓練を受けさせられました。

 その瞬間から、まだ右も左も分からず混乱しているさなか、3つの隊列に対し、40人ぐらいが一グループとなるように、グループ分けをさせられました。

 

 訓練の開始

 そして、今度は通訳者が演台に立ち、訓練が始まりました。「いち」「に」「さん」「し」「ご」から続く数字が上手にいえるまで、何度も何度もやり直しをさせられました。しかしそれだけではすまず、「気をつけ」「やすめ」「敬礼」など他の号令を覚えさせようとしました。そして、我々がぐったりと疲れきり、混乱してくると、すかさず、監視している日本兵の怒りを買いました。

 ホブレットという通訳者は、こんどは号令をもっと大きな声でしっかりとかけるように指導しました。我々は、最初3グループの隊列に整列し、「番号!」という号令をもって今から番号をかけるとことを教えられました。日本語を覚えているなら、しかしここで、ただ番号を号令としてかけるだけでなく、腹のそこから、大きな声で番号をかけていくことを指導されました。

 もし、番号を覚えられない捕虜や、しっかりと腹のそこから声の出せない捕虜がいたら、どうなるか?その場合は非常に簡単でかつ最も効果的な指導方法がとられました。軍曹は刀を抜き取り、その不幸な捕虜の頭に振り下ろしたのです。(幸運だったのはそれが、さやの部分であったことですけれども)まあ、思い起こせば、覚えるための集中力を養わせるのに、これほど効果的な方法はなかったのではないかとも思うのですが・・。

 このように拷問は続きました。どの号令一つ忘れることは許されません。捕虜は隊列を変えられて、前列、中列にいるものは後列へと移り、こうしてどのオーストラリア兵たちも、みな平等に、この特殊な号令訓練を受けさせられたわけです。

 実際この訓練は、頓挫してしまっている者たちを、しっかりとたたき上げたのでした。この訓練で最初から疲労しきった我々は、将来生き残っていくことについて、迷いや疑いを感じずにはいられませんでした。まさしく日本での生活が始まった時点から、我々は「奴隷」がどういうものなのかを思い知らされたのでした。

 本当のところを言えば、人は「あるもの」を奪われるまで、そのあるものに対して、心底大切であることは気が付かないのです。疑いもなく「自由」というものが、人の持つすべての中で最も貴重なものなのです。その日、まさに、日本での初日に、我々は自由を得るのに、どのくらい長い間を待ち続けなくてはいけないのだろうと途方にくれました。

神戸分所跡を訪ねるジョン・レインさん

 

 「神戸ハウス」での生活

 さて、何事にも終わりがありますが、我々が何とか「便所」という言葉を見つけ出し、警備兵たちに何度かその言葉を繰り返したときに、ようやく訓練から解放され、3階だての「神戸ハウス」(神戸分所)と呼ばれる建物に入ることが許されたのでした。

 いずれにしても、我々がどのように神戸ハウスに身を落ち着け、我々のいる建物と別棟にいた300人ほどのイギリス兵をどのように発見したかは、皆さんが私の本を読んでくださればお分かりいただけるかと思います。ちなみにそのイギリス兵たちは香港から移送され、地獄の航海で生き残った兵士たちでした。

 我々捕虜はすぐにたたみの上で寝たり、収容所の中では靴を脱ぐという習慣を身につけました。しかし、どうしても馴染めなかったことのひとつは、終わりなきご飯の食事でした。来る日も来る日も、何週かんたとうが、何ヶ月経とうが、米、米、そしてまた米でした。もし、米と何か他のものがあれば、まだ何とか我慢もできたのですが、通常、神戸ハウスではお椀一杯の水っぽいスープのようなものが、一緒にだされただけでした。

 幸運にも、何ヶ月かのうちに、昼食にはちいさなコッペパンや半切れのパンが出され、単調なご飯だけの食事に変化がもたらされて、それについては、本当にありがたかったわけですが、我々が色んな作業所で働くようになったときに、いたるところで、ひどい食料不足に悩まされていることに、すぐに気が付きました。そこらの空き地や、道端でさえ、蔓延している食料不足を補うように野菜が植えられていたのでした。

 

 企業での強制労働

 到着直後、運動場での訓練を受けた苦痛の日々の後、どのように我々が、工場や港湾荷役の仕事をあてがわれ、どのように作業をこなしていき、またどのようにその環境に順応していったかは、本を読んでいただければお分かりいただけると思います。

 私を含む、吉原製油、東洋製鋼、そして昭和電極に電車で通勤したものたちは、捕虜であるにもかかわらず、我々が通行するところでは、確かにある種特権のようなものがありました。例えば、収容所から駅まで行進して、駅のプラットフォームで、一般の日本人乗客を両側にして、捕虜のグループが並ばされますが、そのとき電車が入ってくると、誰ものっていない車両が、自分たちの真正面に停止するのです。そして、周囲にいる多くの一般乗客たちは、すでにぎっしりつまった車両に争うように駆け込んでいく傍ら、我々は空いている椅子に向かって、ゆったりと乗車しました。

 (記憶が正しければ)我々が、西宮という駅で、電車から降りると吉原製油まで1キロほど行進をしますが、それを見た日本人の子供達が、調子をつけながら「アメリカの捕虜」とはやすのを、まったく楽しんで聞いていました。

 吉原製油は、作業所としてはありがたい場所でした。それというのも工場では、ビタミンBを豊富に含んでいるあらゆる種(たね)類、おもに、ピーナツ(南京豆)をつぶして油を取っていましたが、それら豆類で我々の空腹を満たすことができたからです。そして、すぐにその豆類を神戸ハウスに持ち帰る方法を考え出し、港湾荷役などの作業場で働いている他の仲間たちが取ってくる食料と物々交換するようになりました。

 三井高浜、またの名を竹井と呼んでいましたが、そこは、他の作業場と比べ働くのには最高の場所でした。それは、大日本帝国軍が侵略した国々から、持ち帰ってきた缶詰などの食料が多く運び込まれていたからです。ところが、我々オーストラリア兵よりも早く、神戸に到着していたイギリス兵が、すでにその作業所を牛耳っていました。しかし、砂糖やその他の高価な食べ物は、住友、上組、神戸船舶荷役というところから盗まれていました。

 

 生き残るための物々交換

 神戸ハウスで、生き残るための物々交換が行われるようになるまで、それほど長い間かかったわけではありません、なぜならお金は全く価値もなく、たばこを貨幣の代わりとして使ったからです。たとえば、30箱のたばこで、お椀一杯分の砂糖、あるいはピーナツ、または魚の缶詰一缶分と交換できました。

 これらの物々交換については、もちろん、盗むと言う行為で捕らえられる危険を冒しながら行っていました。毎日、夕方仕事を終えたあとに検査があり、さらに神戸ハウスに到着すると再検査が行われました。この検査は、いつも行進をおこなっていた、東町とよばれていた通りで行われていましたが、単純に収容所施設内が狭かったからです。

 当然、捕虜達は、盗んで隠しもっていた食べ物や、体に隠していた食べ物を見つけられたりして、しょっちゅう、殴られるなどのひどい罰を与えられました。しかし、危険に対しては覚悟のうえでしたし、盗みが見つかったならば、我々は、警備兵がどんな罰を加えてもそれを受け入れる用意はしていました。

 私が捕虜として拘束されている間、ずっと日記をつけていました。皆さんも十分お分かりのとおり。それは絶対に禁止されていました。そのために、日記が見つからない場所を探さなくてはなりませんでした。私は、自分が寝ている床板の下に隠すことにしました。私が何か日記につけておこうとするときには、仲間にうろついている警備兵を見張ってもらいながら、その都度それを取り出すために床下にもぐりこんでいました。

 何週間、何ヶ月かと過ぎるうちに、我々は驚くばかり自分達の日本語が上達していることが分かりました。そして、民間で働いている人たちは、我々と変わりない人たちであることも分かってきました。彼らにも妻があり、子供や家族がいて、皆、国家の命令に従わなくてはならないのです。別の言葉で置き換えれば、彼らも我々捕虜と同じような境遇にいたのです。国が、一国の政策として、国民はどのような状況をも耐え忍ばなくてはならないよう命じていました。

 

 神戸空襲の体験

 戦局が進むにつれて、日本の人々は本当に悲惨な状況に追いやられていましたが、国の政策でそのようになっていったのです。1944年と1945年の間、皆さんのすむ日本はアメリカのB29の猛烈な爆撃にさらされていました。もちろん、我々捕虜も一般の日本人同様、危険にさらされていました。 そしてとうとう、1945年6月5日の朝、神戸は百何機ものB29に爆撃を受けました。幸運にも、捕虜達はそのとき、神戸ハウスにいましたので、私は日記を取り出すことができたのです。 焼夷弾が次から次へ落ち、大きな火のかたまりが、ごうごうと周囲を燃やしていました。必然的に神戸ハウスも火の海にのまれ、我々も隣の運動場のほうへ避難しました。

 一時間ほどのうちに、神戸の街そのものが大きな炎の塊と化して行きました。 そして、街の温度が火で上昇していくと、海の方から冷たい風が吹き、その炎が風にあおられて、猛烈な火炎となり荒れ狂っていました。

 神戸の街の半分とともに、神戸ハウスも燃え尽きました。全収容所の施設が崩壊するまえに、最小限度のものだけをもち非難し、我々は幸運にも、命を失わずにすみました。終戦後、2、3週間たって私は、カメラを手に入れて、神戸ハウスの残骸のみを写真に収めるため、その場所へと向かいました。

 本の中でその写真は掲載されていますが、余りいい写真ではありません。そのとき使ったフィルムは、数年前の古いものだったからです。しかし、その写真をみるときにはいつでも、私が2年間、家と呼び、住んでいたところの思い出がよみがえってきます。1945年8月15日、悲惨な戦争はついに終わりました。日本の若い男性のほとんどは、もちろん、海のむこうにいました。朝鮮半島からニューギニアにいたる極東(きょくとう)の広い地域に派兵されていたのです。ですから、日本の国民たちは、究極の苦悩の矢面にたたされていました。

脇浜跡を訪問したレインさん一行

 

 夢にまで見た自由

 皆様も想像されるように、捕虜たちにとっては、もう本当に、夢に見たほどの幸福感にみたされました。4年近くも故郷を離れて、ようやく、自由を得たのですから。我々は、そのとき「わきのはま」の国道ぞいにあった小学校を宿舎としていましたが、連合国の旗をその建物の屋上にかかげたのでした。

 神戸につれてこられた捕虜は、すべての捕虜のうち、もっとも恵まれていたことは疑いもありません。帰国の途中飛行機事故で5人の仲間たちを失いましたが、日本の中で失った仲間は10人以下でした。我々が後に知ったことですが、全連合国軍捕虜の3分の1の兵士たちが戦争で生き残ることはできませんでした。彼らのほとんどが泰緬鉄道をつくるための労働で、そしてサンダカン死の行進により亡くなりました。

 また、我々は、のちに広島や長崎の人たちがこの悲惨な戦争をすこしでもはやく終わらせるための犠牲となったことも知りました。これら2都市の人々の命は、我々捕虜の命を救ったのです。 現存している書類によると、もし連合国軍が日本に上陸した場合は、すべての捕虜たちをすみやかに処理するべきである、と書かれています。ですから、まさに、人命の賭博で、何千という人が苦しみ、また命を失ったことにたいして、何千というほかの人たちを生かしたということなのです。

 してそのとき、私は自分に問いかけました「なぜ、1945年の8月15日に、なぜ私は人命の賭博で助かる命のリストにのっていたのであろうか?」答えは、恐らく、今日皆様の前に立ち、戦争の悲惨さを語るために生き残ったにちがいありません。

 

 神戸での体験を語ることが使命

 再び私は自分に問いかけます。第2次世界大戦で灰となったところから、生じたもので、肯定できないものがあるだろうか?

 灰から立ち上がった日本は今や、強く躍進する経済力をもった、自由な民主主義の国です。日本は今やオーストラリアのもっとも重要な貿易相手国です。何千という日本の若い旅行者たちが毎年オーストラリアにやってきて、滞在を楽しんでいます。おおくのカップルが、そこで結婚式をあげています。そして、つまるところ、私は神戸というこの街での私の経験を、帰国する前に皆様に語らなくてはならない使命を負っているということなのです。

 我々捕虜の何人かは、波止場沿いの爆撃を受けた倉庫の中のどこに砂糖が保管されているかを知っていました。それで、その倉庫に押し入り、わきのはまの宿舎に持ち帰りました。このころには、我々の胃もみたされ、怖いものなど何もありませんでした。

 青春の真っ只中、無邪気な22歳の青年だった私は、ある夜、「ざつのう」に一杯つめた砂糖を持って、女性をもとめるために街へ出かけて行きました。その砂糖と引き換えに、私はその夜、床をともにしてくれる若い女性を見つけました。詳細については、本の中の「これで性の手ほどきは終わり」の章を読んでいただければと思いますが、この経験について、しばしば思い起こすことがあります。

 ここにいる若い女性とその同じ国民たちは、飢えに苦しむことを余儀なくされていて、恐ろしい爆撃にさらされ、住んでいる町は、灰と化してしまった。そしてそのすべては、私もその一部である彼らの敵によってもたらされたものである。にもかかわらず、この若き女性は私を、最も丁重に、敬意と同情をもって、もてなしてくれました。

 言うまでもなく、日本の女性は世界の中でももっとも丁重で優しいと思うのです。これは、日本でしかありえません。会場におられる皆様、今日はお越しくださいまして本当にありがとうございました。後ほど、皆様がお求めになられた本に、著名をさせていただければ幸甚かと思います。

 

日本軍の捕虜政策−多くの犠牲を出した管理体制−

内海 愛子

 

 戦争裁判で何が問題だったのか

 戦後日本が戦争裁判で多くの戦犯を生んだということはご存じだと思います。私がいま、戦後補償の裁判で関わっているのは、韓国・朝鮮人BC級戦犯といわれた人たちの補償の問題です。なぜ韓国人・朝鮮人、台湾人が戦犯にならなければいけなかったのか、ここに日本軍の捕虜政策がきちっと反映しているということです。このシステムが理解できないと、例えば朝鮮人が、なぜオーストラリアやイギリスで評判が悪いのか分かりません。

 そしてもう一つは、捕虜収容所の関係者です。アメリカの第八軍が横浜で行った横浜裁判というのがあります。そこでは331件裁かれています。その中の3件が中国人関係の裁判、それからあと連合国の民間人たちのケースを入れて8件ありますが、その人たちを捕虜として考えていくと330件が何らかの形で捕虜と関係する裁判です。

 ですから、日本の裁かれた戦争犯罪というのは、捕虜の問題なんですね。そのことが分からないと、私たちは戦争裁判で何を日本人は裁かれて何を裁かれなかったのか。この腑分けをきちっとしておくべきではないかと思います。

 なぜ連合国がそこまで捕虜虐待を重視したのかということです。もちろん、オーストラリアでの裁判やオランダの裁判が一部人民に対する日本の虐待、こういうものも取り上げていますけれども、集中的にやっていくのは、それから戦争直後にすぐ手をつけるのは捕虜および連合国の民間人の問題なのです。自分たちの国の兵士および国民に対する虐待、これを集中的に裁いていく、こういう形で横浜裁判、および連合国各国の裁判がありました。そういうことを念頭に置いて、日本軍の捕虜政策というのがどういうものだったのかということを、皆さんにお話ししたいと思います。

 

 非常に高い日本軍捕虜の死亡率

 連合国の捕虜がどれだけ多くの犠牲になっているかというと、これは東京裁判の中に出てくるんですが、27%が死亡しているんですね。ドイツ・ナチスの英米の捕虜は4%弱です。私たちはナチスはひどいと思っていますけれども、あれはユダヤ人の強制収容で多くの犠牲を出しているからです。

 オーストラリアの場合には、全捕虜の33%だといいます。戦闘で死んだ人よりも捕虜になって死んだ人の方が多いんですね。そのくらい捕虜が政策のなかで犠牲になっていきました。

 それの有名なのがタイとビルマの泰緬鉄道なんですね。それとオーストラリアの場合には、サンダカンのデスマーチ。2000人のオーストラリアおよびイギリス兵が殺された事件です。いま、オーストラリアのウォーメモリアルに行きますと、2000人の顔写真がずらっと壁に貼ってあります。

 私たちは2000人というとああ2000人かと思いますよね。ところが一人一人の顔写真と名前がずっと貼ってあると、これはそれこそ圧倒的な事実の重み、それが泰緬鉄道の場合には、1万3000人といわれています。数え方が非常に難しいんですよ。とにかく1万人前後の連合国の捕虜が死亡しています。

 それとオーストラリア、豪国作戦を展開するためにジャワ、フローレス、アンボン、セラム、ハルクという、オーストラリアのすぐ北のインドネシア領に飛行場を作って、ここから飛行機を飛ばしてオーストラリアを爆撃していくことを考えます。

 私たちはパールハーバーということで戦争を考えますけど、日本はパールハーバーの後にすぐにダーウィンも爆撃しています。それからかなり南ですがシドニーを特殊専攻艇で攻撃しているんですね。そのくらいオーストラリアということを考えていました。

 それで飛行場を作ります。飛行場を作るにも労働力がないから、捕虜を使います。この捕虜を連れてジャワ島から船が行くと、あとから何千人もの食糧をジャワ島から運び出すんですね。なぜかというとアンボンというのは、珊瑚礁みたいな島ですからほとんど食糧の自給はできません。そういうところに何千人分もの食糧を後送するんですが、輸送船は1隻も着かなかった。バンダカンの制海権というのはなかったんですね。

 そういうなかで捕虜が飢えていきます。日本が一生懸命飛行場を作って、結局飛行場を作って飛行機がきたのは1回ぐらいで、あとは全部連合国の爆撃に対して一生懸命穴を埋めて、するとまた爆撃して穴を埋めて、それの繰り返しという、そういうようなことをやった飛行場建設というのがあります。そういうなかで捕虜の死亡はものすごい数で、先ほどもいいましたように27万に達しました。

 そして東京裁判の大きな柱の一つがこの捕虜問題です。平和に対する罪、人道に対する罪、こういうことが裁かれたとよくいわれますけど、あの裁判の大きな柱は、通例の戦争犯罪、要するに捕虜や民間人の人たちに対する虐待、死亡、これが大きく裁かれています。

 

 捕虜とは一体誰か

 そのとき、一体捕虜とは誰かという問題になります。そこで日本の軍隊は、誰と戦ったのかということを考えていただければ分かると思いますが、フィリピンでは米比軍です。そしてマレー半島で英印軍と戦っております。

 そしてインドネシアでは蘭印軍といいたいんですが、ABDA軍ですね。要するに蘭印の防衛のためにチャーチルが提案してイギリス、アメリカ、オーストラリア、そして蘭印軍、これでジョイントホースを作るんですね。これが1942年1月です。ところが、何せ寄せ集めの軍隊ですから、指揮権、命令系統がちゃんと動かないうちにトップのウェーベル大将が「おれいやだ」といって帰っちゃったんですね。

 それで事実上空中分解したんですけれども、空中分解しただけならいいんですが、これに参加するためにオーストラリア軍が中東で展開していた部隊が、ジャワに派遣されます。それからもう一つはオーストラリアの軍隊がそのままインドネシアに派遣される。そういうなかで1942年3月、蘭印が無条件降伏した時に、大量のオーストラリアの捕虜、イギリスの捕虜がそこから出てきます。

 1945年の南方作戦が一段落した段階で日本が抱えていた捕虜は最初の段階で25万人です。そのあと捕虜が増えて30万人、最終的には35万人という数が出てきます。この人たちを食わせるのは大変です。それで日本軍が何をやったのかというと、白人と非白人に分けていきます。

 戦争を遂行する過程で、日本は帝国主義本国と植民地の分断を図るこういう政策を、プロパガンダでやっていきます。マレー半島では大量のビラを撒きます。インド兵向けにはちゃんとヒンズー語とかタミール語で、あなたたちはイギリスの犠牲になるのか、チャーチルがシルクハットかぶって葉巻をくわえてインド兵の後から銃を突き付けて、自分は後の安全なところを歩いて、こういうようなビラを撒いて分断を図っていきます。そういうなかで9万〜10万の捕虜がシンガポールで出ます。その一人がレインさんですね。その中から印度軍を中心にインド国民軍を編成したということは、有名な話だと思います。

 すると捕虜とは誰かということにもう一度帰っていきます。白人と非白人を分ける。何を基準に分けたのかと私は思うんですね。なぜかというと、インドネシアではオランダとインドネシアのダブルの人たちがたくさんいるわけです。彼らは白人なのか非白人なのかという、そういう厳密なことをやっていけば分からないんですが、だいたい私は容貌で分けたと思います。

 捕虜は捕まえると一人一人捕虜のカードを作ります。いつどこで捕まえて部隊は何で、両親は誰で、どういう技術を持っているか。全部ピックアップします。容貌も書きます。肌の色が白、鼻が高いとか眼がブルーとか、こういうことも含めて、白人と非白人を分けていきます。そうして約半数弱が白人捕虜として、ピックアップされてきます。

 では残ったアジア人、非白人は解放されたのか。ここがまた一つの大きな問題です。アジア人捕虜は解放するという方針を出します。これは中国人の強制連行に関わることですけれど、一体中国人は捕虜か捕虜でないのか。当事者は捕虜だという身分を主張しているはずです。日本は華人労務者だという形で主張しているはずです。ここのからくりは何なのかということですね。

 もう一つインド人です。インド人も本来は捕虜のはずです。しかし日本軍はインド人は捕虜として扱わないで、労務隊を編成してそこで彼らを捕虜でない形で使っていきます。だから本当に解放されたアジア人捕虜もいますけれども、アジア人労務者として捕虜の身分から労務者の身分に切り替えられて、日本軍に使われた人たちがたくさんいます。悲劇は、そうして使われた多くのインド人や中国人が亡くなったということです。

 彼らを使った日本兵が戦後戦犯裁判で処刑されています。なぜかというと、彼らは軍からインド人労務者を渡すからこれを使って荷役をするよう言われます。彼らは労務者としての処遇をします。戦後になると、インド兵が私たちは捕虜だ。捕虜を虐待した、という形でジュネーブ条約違反ということを含めて、彼らは、これはオーストラリアのラバウル裁判ですけれども、そこで処刑されています。

 

 捕虜と国際条約

 なぜ彼らが処刑されたのかということです。捕虜と国際条約、すなわちジュネーブ条約、これが大きな問題です。ジュネーブ条約というのは、捕虜の処遇について決めた条約です。これを日本は署名したんですね。署名したんですけど陸軍と海軍の反対で批准しなかった。こんな捕虜の処遇を認めてたら、日本兵よりよっぽど捕虜の方がいいという処遇になります。

 当時日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓を叩き込まれたはずです。捕虜になることは考えられない。だから捕虜の問題というのはほとんど予測していなかった。そこに25万の捕虜が出たんですね。そこがまず最初のつまずきなんです。

 その25万の捕虜が出る前に、実は開戦直後赤十字から打診があります。これについても陸軍はうまく適当に使えというような方針を出すんですけど、そのあとアメリカから日本はジュネーブ条約を批准していないことは知っているけれども、相互の適用をやりたいという申し出があるわけですね。同じようにイギリス、英連邦から翌年にあります。私たちはこんなものは批准していませんと蹴れば、それはそれで一つの方針です。

 しかし外務省は蹴れなかったんです。なぜ蹴れなかったかといえば、外務省は内と外の情報を管理していますから、当時50数万の在外邦人がいて、ジュネーブ条約を日本が蹴れば、この人たちの処遇にもろに反映する。それで外務省としては何とか批准まではいかないけれども、それを玉虫色で解決したいというので、ここで外務省が主導になって、陸軍省、海軍省それから陸軍、海軍ですね、この人たちを入れて会議をやって、回答したのが準用の回答なんです。日本は、その精神を尊重しますということです。精神尊重ですから、虐待したって精神尊重してましたと言えばいいわけですね。ところが事実上連合国は、批准と同じにこの準用を解釈していきます。

 

 捕虜の労務動員

 そして東条は、「1日たりとも働かないでは飯を食わせるな」という趣旨のことを演説したといわれています。東条はそんなことは言っていないといっているんですが、その意を解してちゃんと下級の中将が労務に就かせる方針を出していきます。

 こういう形で、捕虜の労務動員が始まります。しかし、労務動員といっても連れてきてここで働いてくださいという形では、働けないんですよね。で、何をやったのかというとそれぞれの企業に捕虜を使わないかと、最初は軍の側から提案するわけです。ところが企業は怖がって最初は捕虜を使おうとしなかった。しかし軍は、宿舎は軍が提供します、食べるものも軍が提供します、管理は軍がやります、だから企業の側は捕虜について1日2円の賃金を払ってくれればいいんです。こういうようなプッシュをして、それで捕虜を入れていきます。

 そうすると、捕虜を使った段階で、思わぬ効果が出た。ひとつは捕虜が働いているのを見て、無敵皇軍、日本が本当に大東亜を占領してそこを支配していることをこれが捕虜の実際の姿の中から、多くの人たちがそれを感じて日本軍に対する忠誠を誓っていく。こういう宣伝効果が一つあった。それともう一つ、朝鮮人を使っていたけれど能率が上がらなかった。それで、朝鮮人を捕虜で代替しようという企業が出てくるんですね。

 その時、どういう状況だったかというと、みんななるだけサボタージュをしますよね、日本人も。そして賃金を民間企業でも上げるように要求する。ところがそこに捕虜が組織的に入ってくると、自分がさぼっていると職場がなくなるというので、他の人の労働の能率が上がっていく。

 そこで、1942年の秋ぐらいから本格的な捕虜の日本への導入を図ります。しかし、10万人シンガポールにいたといっても、その中でどういう捕虜がどこにいて、それをどこの企業にあてはめていくのか。これは非常に難しい仕事です。それでまずやったことは、各企業に捕虜を何人、どういう仕事に使いたいのかという、許可願いを出させます。それには理由書も添付させます。

 これはどういうルートを通って行くかというと、まず、地元の区役所、市役所などに書類を出します。だんだん上がって軍司令官、その地域を管理する軍司令官がこれを許可すると、その上に最終的には陸軍大臣が全部許可します。ここが朝鮮人と中国人と違うところなんですね。厚生省止まりで認可をするのではなくて、最終的には軍のトップ、軍政のトップが捕虜については全責任を持つ形で導入していきます。

 企業があげたものを軍が承認して、陸軍省が承認して、それをシンガポールやフィリピンのマニラなどの軍司令官に命令を出し、そして乗せる船まで指定して日本に連れてくるわけです。連れてきて門司などに上がった捕虜を受け取り、受領して、神戸やなんかにこれを連れてくる。そして、要請が出ていた企業に配分していくんですね。非常にシステマティックなんです。そうやって捕虜を労務に動員していきます。

 

 捕虜収容所の管理体制

 捕虜収容所というのは後方の勤務です。東南アジアや日本が占領した地域全体に、捕虜収容所ができます。フィリピンにはフィリピン捕虜収容所、シンガポールにはマニラ捕虜収容所、ジャワにはジャワ捕虜収容所、そしてボルネオにはボルネオ捕虜収容所をつくっていきます。これは東南アジアです。そして奉天とか上海とか香港、ここにも捕虜収容所があります。日本国内にも収容所が何カ所かできます。

 収容所にに捕虜を配置した時、食べさせたり医療の面倒も見なければいけない。ものすごい人手がかかるんですね。東南アジアの場合には、それを朝鮮人と台湾人で補填したのです。だから捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、あと全員が朝鮮人軍属なんです。

 日本国内の場合も、最初は軍が面倒を見ますよといったんですが、軍がそんな余裕がないと全部企業に丸投げするんです。捕虜を派遣するからお前のところで全部食わせろ。それから面倒を見ろ、これが派遣俘虜です。そうやって捕虜を派遣しておいて、体制が整うと自分のところに分所を作って、そこに予備役の将校を入れて下士官を入れて、日本の軍が警備する、こういう体制を整備します。これが1943年昭和18年の5月ぐらいですね。3月ぐらいでもう整備されています。

 ところが、整備したのはいいけれど、こんどはそんなところに有能な日本軍の兵士を張り付けておく余裕がなくなるんですね。それで何をしたかというと、派遣所と名前を変えて、軍人は将校一人にして、あとは先ほどいったような各企業からの警備員、民間人ですね。それから傷痍軍人を軍属として採用して、それで彼らが管理するわけです。そういう管理を戦争末期にしますから、もっともきつい状態の時ですね。食べるものがほとんど無い。食糧もちゃんと軍から支給することになってたはずですが、戦争末期になるとそれも滞る。それともう一つは、副食もつけてたはずです。軍が支給していた。ところができなくなると一人3銭かな。これをやるからお前のところで食べるものを集めろと、こういう方針に変わります。

 なんてったって食べるものがない。それから、捕虜に対するプロパガンダをすごくやって、反英米、鬼畜米英ということもやっています。空襲もありますから、捕虜に対する敵愾心がものすごく高まっていくわけですね。俘虜収容所は全部「俘」と書いた腕章をつけてるんです。腕章というのは勝手に付けたりはずしたりできないものなんだそうです。捕虜収容所の人は食糧の買い出しに行く時、それを付けていくと、捕虜なんかに食わせるものは売れないと拒否されるので、しょうがかいから腕章をはずして食料を調達したというような話もあるほどです。たぶん、神戸はもうちょっと条件が良かったと思います。

 こういう形で捕虜を管理していきますから、昭和19年、1944年、45年になると捕虜はほんとうに餓死との、たたかいになります。アウシェビッツのあの姿を思いうかべてもらえればいいというくらいに、捕虜がやせていくわけですね。それでも労働は続くんです。労務は、とにかく人手が足りない。平時の生産の70%に落ちている、50%に落ちてると企業から言ってきます。そこで捕虜を何百人という要請がありますから、捕虜収容所は無理してでも人を出していきます。空襲で捕虜収容所が爆撃されても、なかなかそこを動かないのは、労務の需要がある限りは労務を優先させたんですね。多少とも移動できる人は山奥に移動していきます。それともう一つ、連合国が上陸作戦を展開して捕虜を奪取されたらば、これはむこう側の戦力になりますから、最も日本に対する敵性の強い捕虜というのはアメリカ人捕虜と規定していたそうです。この人たちは海岸地域の捕虜収容所から山奥の捕虜収容所なんかに移していく。こういうこともやったといわれています。

 私たちは捕虜収容所のほうからこの問題をアプローチしていくと、捕虜収容所が細かく展開するので、なかなか全体像がつかめないんですけれども、労務の需要からつかんでいくと、中国人強制連行と同じですね。事業所、そこから見ていくといかに捕虜がいろんなところに展開していくのかがよく分かります。

 

 日本の捕虜政策に対する米英の態度

 レインさんは引き揚げの時に沖縄に2日間いて、マニラに3週間いってそれからオーストラリアに引き揚げてるんですね。これはほかの捕虜もほとんど同じです。どういうことがその間にあったのか。もちろん体力の回復ということも大変大きな問題ですけれども、アメリカとイギリスは日本に対して1944年の2月の段階で、「もうあなたたちは信用しない」という声明を発表しています。

 これはどういうことかというと、フィリピンで解放された捕虜、そこからアメリカが証言を得たら、あまりにもひどい捕虜の処遇、バターンのデスマーチがありますよね。それと医療がない食糧がない、そういう証言を得てイギリスやアメリカは、日本の捕虜虐待をつかんでいるんですね。だけど一般には公開しなかった。なぜ公開しなかったかというと、これを公開すると日本はまた逆上して、自分たちの捕虜をもっとひどい目に遭わせるだろう。だからこれは伏せておいた。ずっと伏せておいたけど、1944年になって、もうこれ以上伏せることはできないといって、捕虜の実情を放送で流し、これは全世界に流れます。

 それと、日本に対する抗議の報告書もでます。マッカーサーは自分たちの捕虜を虐待したものに対しては、戦後絶対に戦争裁判にかけるとその段階でいっていますし、イーデンが国会で演説をやっているくらいなんですね。これに対する抗議文は年中外務省を通してきます。外務省は全部見ているんです。重光の「昭和の動乱」という自伝を見ていたら、やっぱり彼は捕虜問題にいちばん心を痛めている。何とか方針を転換しようと思っても、もう動き出した歯車を変えることはできなかった。なぜかというと、陸軍も、陸軍省も捕虜の問題をほとんど歯牙にかけなかったんですね。労働力として使うくらいは一生懸命考えましたけれど、ジュネーブ条約にのっとってどこまで捕虜を処遇できているのか、通り一遍の調査はしています。そんな事実はありませんいう電報を打ち返しています。連合国の抗議というのは、受信をしている人によると数え切れないくらいで、私たちはいちいち憶えていないと。正式な回答したのが80何件あるんです。そういう捕虜の状態でした。

 ですからポツダム宣言の第10項というのは、「我らの捕虜を虐待せるものを含むあらゆる日本の戦争犯罪はこれを厳しく裁く」、これが連合国の戦争犯罪規定です。そこで明確になっているのは、捕虜虐待だけなんです。これを受け取った大本営は、何を言っているのかよく分からなかった。他の戦争犯罪はいったい何なのか。それは明記されていないので中身が分からない。しかし、捕虜虐待だけは明記されているんですね。

 マニラで受領した降伏条件の中にも、捕虜の条件が書かれていました。すぐ身柄を安全なところに移して、そしてその人たちをいの一番に引き揚げさせる。そのために、占領が始まる前に全部名簿を提出させています。この名簿は、捕虜収容所の名簿だけではないんですね。捕虜が働いていた吉原製油の社長から、同じ工場で働いていた人のリストまで全部出させる。そのくらい徹底してます。それで、虐待した人を全部リストアップしていく。そのくらい連合国が捕虜の問題を重視していることを、当時の陸軍大臣も次官も「私たちが予想もしてなかったことだ」だと言っています。

 一体捕虜収容所で何があったのか。連合国がやる前に自分たちが調べよう。俘虜関係調査委員会というものを作っていきます。これは日本軍が作った委員会です。どうも連合国が捕虜について厳しく裁くようだから、一般的な戦争責任とか戦争犯罪ではなくて、捕虜について集中的に調査するというやり方をしていきます。それで捕虜収容所の人に調査させて、懲罰をしているんです。軍法会議を開いてではなくて、どうも捕虜を何回か殴っているようだから、あれは営巣に一週間入れるとか、そういうことをやってアメリカや連合国がそれを追及することをかわそうとしているんですね。ところが、連合国の方の動きが早く、これも途中で何となくうやむやになります。

 日本は東京裁判やBC級裁判の他に、自主裁判というのを自らやっています。バターンのデスマーチの本間中将は礼遇停止になっています。あれは自主裁判の軍法会議の法廷と行政処分の両方やっていますが、その行政措置だと思います。こういうふうに日本側が裁いておけば、よもや連合国はそんなに厳しく裁かないだろう、というように予測してたんだと思います。

 しかし、先ほどいいましたように、1944年アメリカ、イギリスは日本に対して一切の幻想を捨てたと、これから日本の捕虜虐待に対して徹底的な情報を収集して、これに対する責任を追及するという方針に変わっていきますから、44年くらいになると東南アジアはもちろん、中国、日本の中にある捕虜収容所についても、全部リストを作っていきます。北緯何度東経何度にどういう収容所があった、最初はほとんどクェスチョンマークなんですね。44年の8月くらいになると、新潟の収容所は砂地の上にあって、どういう鉄工所が使っていて、イギリス人捕虜が何人いて、オーストラリア人捕虜が何人いて、全部それを掴んでいます。神戸でも全部リストアップされて、名前まではともかくとして掴んでいたはずです。

 

 捕虜虐待の実態調査

 日本は捕虜の名前を全部赤十字に報告してます。ここが中国人と朝鮮人の違うところです。これは国際条約にしたがってそれをやる義務があったんですね。そうやっているはずです、といった方がいいですね。というのは、あんまり捕虜の数が多くて、それと捕虜を管理する日本側の体制はあまりにも貧弱で、実は捕虜の名前をリストアップして報告するのが全部終わったのは1953年です。戦争が終わっても延々と捕虜収容所では名簿を作っていた、それくらい日本は体制が遅れたといわれています。

 一方、連合国の側は、まず身柄を安全に確保した段階で、「お前は誰に虐待されたか」ということを書き出すんです。これはかなりランダムですけど、たとえばレインさんに調査官が来て「お前日本人に殴られたか」「いつどこでどういうふうに殴られたか」「殴られたのを見たのか」、そういうカードが集積されます。これは今、ワシントンの公文書館に残っています。マニラで体力を回復した人や、一度帰った人たちにも調査します。どういうようなランクで、いつまでここにいて、そしてどういう虐待を受けたか、その虐待は自分が受けたのか、目撃したのかそれを全部書かせるんですね。それと同時に、捕虜収容所の解放に連合国の兵士が入っていきますから、収容所の写真を撮って、どういう建物だったのかということもレポートして、それも蓄積していきます。こういうことをふまえて裁判を展開します。

 私は、その刑が妥当かどうかとか、なぜ捕虜収容所だけなのか、もっと大きな戦争犯罪がなぜ見逃されたのか、という疑問はあります。だけど、そこで問題にされている戦争犯罪に、そんなに大きな誤りはないと思います。ただ、人定の間違いはあると思います。というのは、日本人の名前を確定できない、それともう一つは綽名でだいたい呼んでいるんですね。たとえば内海などというのは、ツというのは発音しにくいとかいろいろありますね。そうすると、全部あだ名を付ける。あだ名で呼んでますから、あだ名とその名前が一緒のものかどうかの確定ができる人とできない人がいる。それが一つ。それともう一つは、名前が特定できない時は首実検をやったんです。捕虜収容所の関係者を全部捕虜の前を歩かせて、これ、これってやりますから、本当に殴った人とそうじゃない人が1年も2年もたつとかわってきますね。でもそれで、とりあえず容疑者をピックアップしていく。そういうやり方をしていきましたから、人定に問題があったことは事実かも知れません。

 ただ、先ほども言ったように、多くの捕虜が死亡し、ないしは戦後いろんな後遺症を持っていた、これは事実だと思います。で結局、多くの捕虜を死亡させた捕虜収容所に集中的に戦争責任が被さってきます。たとえば泰緬線の場合には、捕虜を管理するのは捕虜収容所です。でも捕虜を使うのは鉄道隊なんです。だけど鉄道隊からは二人しか戦犯は出ていない。捕虜収容所では20数人、朝鮮人の軍属も死刑になっています。

 なぜかというと、捕虜収容所はずっと一緒で毎日顔を合わせていますから憶えているんですね。鉄道隊は、協力するだけだから工事が終わるとどんどん展開していきますから、殴られてもよっぽどひどい人でないと分からない。そこで戦争責任の追及が捕虜収容所にどうしても集中する。日本軍が捕虜にやったいろんな行為のシンボルとして、捕虜収容所がとりあつかわれ、そして具体的には、殴った、私的制裁ですね。それは日本軍の場合は誰でもが受けてきたとよく言われますし、軍属たちはさんざん殴られて教育されてきたから、殴ることにそんなに抵抗感を持たなかったということも事実だといいます。でも、自分たちは殴られても、殴る行為を捕虜にやった場合、これは戦争犯罪になるんですね。

 朝鮮人は3000人、俘虜収容所の監視員として集められました。3320何人ですから大体3000人です。その中から129人が戦犯になっているんです。それで23人が処刑されています。憲兵隊は戦犯の絶対数は多いんですが、率としてこんなに高い戦争犯罪人を出した部隊はないと思います。日本の戦争犯罪として有期刑を含めて処刑された7%は旧植民地出身者なんですね。そのうちの大部分は捕虜収容所です。148人の朝鮮人の戦犯のうち、129人が捕虜収容所関係者です。

 

 裁判で裁かれなかったもの

 日本軍の捕虜政策、ジュネーブ条約とそのつまづき、大量の捕虜を管理する能力がなかった。それからシステムが作れなかった。一応、陸軍省の軍務局の中に捕虜管理部をつくって俘虜情報部と両方で管理する。すごいなと思ったら、一人の人が二つの仕事をしている。そういう形でほとんど捕虜に、エネルギーを割かなかった。ですから、捕虜収容所がどういう実態の中にあるのかということがつかめてても、改善命令も出せなかった。

 南方からの捕虜の輸送、これはやっぱり地獄船なんですね。日本兵も大変だったけど、捕虜はそれよりもっと大変で、船倉に押し込められますけど、最初の頃は1坪に6人、それがその年度末になると22人、要するに寝る場所もないという、そういう形で、20何人までは確認できていますね、輸送されてきますから、門司に着いた時にはあまりの惨状に朝鮮俘虜収容所から、捕虜を引き取りに来た人が受け取りを拒否した、というぐらい輸送の過程で多くの捕虜が死んでいるんです。

  日本に着いて、上陸した捕虜を目撃していた女の人の証言を聞くと、黄色い人がひょろひょろと上がってきて今にも倒れそう、それを受け取りに来た捕虜収容所の人が全部受け取って、夜行列車に詰めて、乗せていくと。あまりにもひどい人は、そこらの病院に入れたりすると。しかし、船倉を見たら垂れ流し状態。その中に死体がうずたかく山のように積まれている。最初暗くてよく見えなかったのが目が慣れてみると、それは全部遺体だったという。それからあとどんどんお棺が運ばれてくると手足が出たりしてひどい状態で、彼女はそれをみたあとうなされて、いままで絶対に思い出したくないというぐらいの惨状だったという。

 捕虜虐待というのは、たんにこれだけというのではなく、そういうものも全部含めて、実は元捕虜の人たちが記憶の中にインプットされているんですね。だから戦後、オーストラリアはものすごく対日感情が悪いんです。

 個人の行為に対する責任は個人が取るべきだ。だから日本の戦争裁判は、私たちが正しいというのがオーストラリアや連合軍の基本的な考え方です。これに対して私たちが、それはそうかもしれない、だけと連合国の捕虜の問題だけが特記されてて、他の戦争犯罪についてまったくといっていいほど触れていない。中国人は3件だけです。横浜裁判では。朝鮮人については一切取り上げていない。こういう戦争裁判のあり方には、私は強い疑問を持ちます。それと連合国は、自らの戦争犯罪行為は一切裁かないことを申し合わせていますから、自分たちが原爆を落としても空襲をやっても、それはノータッチなんですね。

 その中で捕虜収容所を中心にした捕虜の扱いだけがクローズアップされてきますから、私たちは日本の戦争の戦犯というと、いろいろなことを含めて裁かれたというふうに考えていますけど、そうではなくて、主要には捕虜の問題、そこを軸にして日本の戦争犯罪が問われている。このなかで、問われなかった、落とされた戦争犯罪が、どのくらい今の戦後史を規定してきたのか。戦後史のなかで裁かれなかったのはいったい何だったのか。これを自分たちがもう一回、戦争裁判を見直すなかで考えていかなければいけないんだというふうに、最近思い至っているところです。

 一体日本の捕虜政策、それがどういうような犠牲を生んで今日にまで、禍根を残しているのか、そこを私たちが明確にしていかなければならないんじゃないか、というふうに思っています。どうも個人の蹴った殴ったという、そういうなまじ易しい問題ではなくて、日本軍の持つ構造的な管理体制の欠陥、これが捕虜虐待として表れているのではないか、これはたとえば天皇、作戦参謀がいちばん発言権があるとか、いろんな問題がそこに絡んでくるんですが、捕虜問題はそういう問題を考える大きなポイントではないかと最近思っています。

 朝鮮人の場合は、まったく日本から受けた被害に対して、なぜ戦争裁判から排除されたのか、従軍慰安婦の問題だけじゃないんです。植民地の問題はあそこでまったく裁かれていなくて、中国人に対しては連合国の国民だから135の事業所の調査も行うわけですね。そういう形で連合国の問題と、それからアジアの民衆の問題、これは裁かれなかった日本の戦争犯罪の中には、アジアの住民に対する日本軍のいろいろな行為、これも含まれている。それを私は1990年代にいろんなところで始まった戦後補償裁判、それはそういうことを含めた私たちの歴史の掘り起こしだと思っています。(了)

 

■戦時下神戸港に強制連行された中国人4名の証言

安井三吉

 

 中国・河南省原陽の張忠杰さんから、大阪の桜井秀一さんを通して、戦時下神戸港に強制連行され、働かされた4名の中国人の方々の「証言」が届きました。どなたも、新華院(済南)と日本での苦難とともに、日本政府と企業に対する謝罪と補償の要求を述べられています。以下、骨子を紹介します。

 

1 張金正さん

 1918年7月15日生まれ、家は河南省方城県広陽鎮大李庄村。元国民党軍兵士。1944年、河南省中牟県で日本軍と戦闘中、捕虜となる。許昌の監獄に入れられる。農暦8月16日、汽車で山東省済南市の新華院に連行。17日間苦役に従事。青島から乗船、二、三千人。同行の一部は七尾、一部は北海道へ。自分は神戸の「新華寮」へ。隊長は?殿如。荷物の積卸し作業に従事。日本降伏1ヶ月余、九州から船で塘沽へ、さらに天津北洋大学へ。日本政府は中国人民に対して謝罪を、神戸埠頭は経済的補償を。

     張金正さんのことは、李宗遠論文(『神戸強制連行の記録』203頁)にも出てきます。

 

2 李運川さん

 1921年1月11日生まれ。現在、河南省方城県小史店鎮楼庄村。国民党軍兵士、1944年、河南省?河防衛戦で捕虜、?城で拷問。8月、済南の俘虜訓練所(新華院?)へ連行、青島を経て日本へ。神戸では、李寿斌分隊長の下で労働。港で貨物の積卸。日本降伏後、10月に帰国。日本企業、政府に対して歴史の正視、中国人労工の血債への償い、謝罪、補償を要求する。(2002.8.11、整理)

 

3 趙金銀さん

 現在77歳。河南省原陽県王杏蘭郷趙杏蘭村。1944年7月、陽武県城北関駅から徐州を経て、済南の新華院へ連行。2か月後、青島から日本へ。下関で下船、神戸へ。港で貨物の積卸。後に敦賀へ、さらに七尾へ。日本降伏後、下関から塘沽へ。七尾の企業の謝罪、補償を要求する。(1996.4.18、整理)

 

4 肖金声さん

 現在83歳。河南省原陽県路寨郷河底鋪村。1944年8月、県城近くで捕まり、城北関収容所に連行。新華院へ送られ、1か月余り辛酸をなめる。青島から日本へ。下関で下船。神戸で6か月働いた後、七尾に送られ、港で働いた。隊長は蔡書香(武陽の人)。45年8月15日、日本降伏後は管理が緩くなった。1か月余りの後、船で塘沽に戻り、天津の北洋大学に行き、数日もせず家に戻った。

 日本の企業と政府の謝罪、中国に被害者のための記念碑の建立、、経済的補償を要求する。(1996.9.18、整理)

 

案内/シンポジウム

「戦争慰留問題と中日関係の展望に関する国際シンポジウム」

 

時期:2004年9月18日―19日

場所:北京

テーマ:日本軍国主義の中国侵略の罪責、日本の中国侵略戦争の慰留問題

    世界反ファッショ戦争に占める中国抗日戦争の位置、

    平和教育と愛国主義教育、中国関係の展望など。

     (安井三吉参加、報告予定)

主催:世界抗日戦争の史実を守る会、中国抗日戦争学会、

    中国人民抗日戦争紀念館、北京大学歴史系

連絡先:中国人民抗日戦争紀念館

 

活動の記録(5)

 

2003.12.04 第38回運営委員会(於/神戸学生青年センター、以下特に記述のないのはセンター)&送年会

2003.12.09-14 「南京・閉ざされた記憶」神戸展に参加(於/県民会館)

2003.12.21 ニュース「いかり8号」発行

2004.01.08 第39回運営委員会

2004.01.31 「論文集」「副読本」出版記念講演会、朴明子一人芝居、金慶海、孫敏男、 徐根植、梁相鎮、村田壮一、安井三吉、徳富幹生の話

2004.02.01 兵庫在日外国人教育研究協議会研究集会で宮内陽子、副読本の発表

2004.02.06 安井三吉先生の最終講義に参加(於/神戸大学)

2004.02.12 第40回運営委員会

2004.03.03 神戸新聞に副読本の記事

2004.03.13 神戸新聞等にジョン・レインさん来日の記事

2004.03.13 ジョン・レイン『夏は再びやってくる』出版記念講演会、ジョン・レイン、 内海愛子、平田典子の講演

2004.03.19 731部隊細菌戦裁判原告の証言を聞く集いに参加

2004.03.20 堺市教育委員会フィールドワークで甲陽園、神戸港等を案内、徐元洙、梁 相鎮、飛田

2004.03.28 『むくげ通信』203号に徳富幹生、 飛田雄一による論文集、副読本、ジョン・レインの本の書評

2004.04.08 第41回運営委員会

2004.04.22〜5.29 「南京・閉ざされた記憶」ひょうご展に参加

2004.05.08 真相調査団神戸フィールドワーク、梁相鎮、金慶海、徐元洙案内

2004.05.09 大阪中国人強制連行フィールドワーク、追悼集会に参加

2004.05.13 第42回運営委員会

2004.06.10 神戸市と石碑について話し合い

2004.06.10 第43回運営委員会

2004.06.14 兵庫在日外国人人権協会、神戸市と総合交渉、副読本・石碑もテーマに、孫敏男、李相泰、徳富幹生ほか参加

2004.06 『歴史と神戸』244号に村田壮一の3冊の本の書評掲載

2004.06 『ひょうご部落解放』113号に金慶海のジョン・レインの本の書評

2004.07.08 第44回運営委員会

 

「神戸港調査する会」関係の出版物

 

▼ジョン・レイン著平田典子訳

『夏は再びやってくる−戦時下神戸・元オーストラリア兵捕虜の手記』(神戸学生センター出版部2004年3月)定価1890円(送料調査する会負担)A5判264頁

 

▼【論文集】調査する会編

『神戸港強制連行の記録−朝鮮人・中国人そして連合軍捕虜』(明石書店2004年1月)定価4725円(特価3800円、送料110円)四六判352頁

 

▼【副読本】調査する会編・発行(執筆・宮内陽子)

『アジア・太平洋戦争と神戸港−朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜』(みずのわ出版2004年2月)定価840円(特価800円、送料110円)B4判32頁

 

▼復刻版/神戸連合軍捕虜関係地図(松本充司さん提供)A3、4枚分カラーコピー 500円(送料110円)

 

■編集後記■

★久しぶりのニュース9号です。3月の出版記念会講演を記録しました。内海愛子さんの講演は、文字ばかりの編集となって読みにくいかも知れませんが、あしからず。(堀内)

★暑いですねえ。残りの課題は、出版した本の完売と記念碑を建てること。年内に終わりたいですねえ。(金慶海)

★今から印刷です。飲みながら印刷ではなくて、印刷 してからビールとします。先日、NHKで通風とビールの解説があって、それほど気にしなくてもいいとのことです。(飛田)

★選挙から1週間。また運営委員会にもキチンと出席します。今日はお手伝い。(門永)

神戸港調査する会神戸学生青年センター