ジョン・レイン氏の出版記念講演会でのスピーチ
2004年3月13日、神戸学生青年センター ENGLISH

<謝意>

「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」 安井三吉 代表

(以後「神戸港を調査する会」と略させていただきます)

「神戸港を調査する会」 飛田雄一事務局長

「神戸港を調査する会」 会員の皆様

POW研究会会員であり、翻訳の監修を引き受けてくださった 福林 徹様

同じくPOW研究会会員で、翻訳作業を手伝ってくださった 田村佳子様

翻訳での日本語の校正を引き受けてくださった 今田裕子 様

訳本の装丁・レイアウトを引き受けてくださった 菅 陽子 様

そして翻訳者であり、私の一友人でもある「神戸港を調査する会」会員の平田典子様

 

「グッダイ」これはオーストラリアでの「こんにちは」という挨拶です。

私の著書である「夏は再びやって来る」の日本語の訳本が出版された、この特別な日に、私が皆様とともに同席できることを心よりうれしく思っております。この本は、私が大日本帝国軍の捕虜として3年半、そして皆様の愛すべき神戸の街で過ごした2年ほどの私の経験を記したものです。

 

しかしながら、1943年6月当時、1部ではありますが、私が見た神戸の街というのは現在の様子は全く違ったところでした。

我々の捕虜は、シンガポールから貨物船に乗り、日本への移送途中で、アメリカの潜水艦の攻撃から幸運にも、命からがら逃れることができたその悲惨な航海を経て、「門司」に到着したオーストラリア兵300人のグループでした。門司到着後は、まる1昼夜、列車の中で過ごしたのですが、その間、閉じ込められていた状態だったので、ほんのわずかしか眠ることができませんでした。

 

そして翌朝8時30分、我々は「神戸」に到着し、「仲町通り」まで南へわずかな距離を行進したのち、「運動場」のようなところで集合をしました。

人の人生には確かに、一生忘れることのできない「苦渋」の時があると思うのですが、私にとって1943年6月8日がまさにそうでした。私は、その日を決して忘れることはできません。

 

我々はそのとき、すでに16ヶ月ものあいだ、シンガポールで捕虜として過ごしたわけですが、さらに今度は、一般の日本人からは一体どのように扱われるのかというその不安をもちながら、敵陣である日本本土内にいる自分がいたのです。まずは、大日本帝国軍の兵士たちに管理され、予測もできなかったような、猛烈なカルチャーショックに耐えなければなりませんでした。

 

1昼夜の眠ることもできない苦痛の列車での移送を経てようやく運動場に到着し、各々の小さな荷物を足元の芝生の上に置いたときには、我々は、速やかに施設へと案内されて、疲れを癒すよう体を横たえ、できることならちょっとしたご馳走を与えられることを期待していたのです。ところが、現実は、まったくその逆のことが起こりました。

あっという間に、我々の真正面に演台が置かれ、刀を腰にぶら下げている日本兵がそこに上がり、威厳を示すかのように、通訳を通して訓示を初めました。

 

我々捕虜は、戦場で死ぬことを選ばず、不名誉にも降伏したにもかかわらず、大日本帝国軍の慈悲により命が救われている、だからこれからは、日本軍と同様の規律に従わなくてはならないということを言われました。今後すべての指令は日本語で行われることが言い渡され、早速我々はその場で日本語の番号の号令訓練を受けさせられました。

その瞬間から、まだ右も左も分からず混乱しているさなか、3つの隊列に対し、40人ぐらいが一グループとなるように、グループ分けをさせられました。

 

そして、今度は通訳者が演台に立ち、訓練が始まりました。「いち」「に」「さん」「し」「ご」から続く数字が上手にいえるまで、何度も何度もやり直しをさせられました。しかしそれだけではすまず、「気をつけ」「やすめ」「敬礼」など他の号令を覚えさせようとしました。そして、我々がぐったりと疲れきり、混乱してくると、すかさず、監視している日本兵の怒りを買いました。

 

ホブレットという通訳者は、こんどは号令をもっと大きな声でしっかりとかけるように指導しました。我々は、最初3グループの隊列に整列し、「番号!」という号令をもって今から番号をかけるとことを教えられました。日本語を覚えているなら、しかしここで、ただ番号を号令としてかけるだけでなく、腹のそこから、大きな声で番号をかけていくことを指導されました。

 

もし、番号を覚えられない捕虜や、しっかりと腹のそこから声の出せない捕虜がいたら、どうなるか?その場合は非常に簡単でかつ最も効果的な指導方法がとられました。軍曹は刀を抜き取り、その不幸な捕虜の頭に振り下ろしたのです。(幸運だったのはそれが、さやの部分であったことですけれども)まあ、思い起こせば、覚えるための集中力を養わせるのに、これほど効果的な方法はなかったのではないかとも思うのですが・・。

 

このように拷問は続きました。どの号令一つ忘れることは許されません。捕虜は隊列を変えられて、前列、中列にいるものは後列へと移り、こうしてどのオーストラリア兵たちも、みな平等に、この特殊な号令訓練を受けさせられたわけです。

 

実際この訓練は、頓挫してしまっている者たちを、しっかりとたたき上げたのでした。この訓練で最初から疲労しきった我々は、将来生き残っていくことについて、迷いや疑いを感じずにはいられませんでした。まさしく日本での生活が始まった時点から、我々は「奴隷」がどういうものなのかを思い知らされたのでした。

 

本当のところを言えば、人は「あるもの」を奪われるまで、そのあるものに対して、心底大切であることは気が付かないのです。疑いもなく「自由」というものが、人の持つすべての中で最も貴重なものなのです。その日、まさに、日本での初日に、我々は自由を得るのに、どのくらい長い間を待ち続けなくてはいけないのだろうと途方にくれました。

さて、何事にも終わりがありますが、我々が何とか「便所」という言葉を見つけ出し、警備兵たちに何度かその言葉を繰り返したときに、ようやく訓練から解放され、3階だての「神戸ハウス」(神戸分所)と呼ばれる建物に入ることが許されたのでした。

 

いずれにしても、我々がどのように神戸ハウスに身を落ち着け、我々のいる建物と別棟にいた300人ほどのイギリス兵をどのように発見したかは、皆さんが私の本を読んでくださればお分かりいただけるかと思います。ちなみにそのイギリス兵たちは香港から移送され、地獄の航海で生き残った兵士たちでした。

 

我々捕虜はすぐにたたみの上で寝たり、収容所の中では靴を脱ぐという習慣を身につけました。しかし、どうしても馴染めなかったことのひとつは、終わりなきご飯の食事でした。来る日も来る日も、何週かんたとうが、何ヶ月経とうが、米、米、そしてまた米でした。もし、米と何か他のものがあれば、まだ何とか我慢もできたのですが、通常、神戸ハウスではお椀一杯の水っぽいスープのようなものが、一緒にだされただけでした。

 

幸運にも、何ヶ月かのうちに、昼食にはちいさなコッペパンや半切れのパンが出され、単調なご飯だけの食事に変化がもたらされて、それについては、本当にありがたかったわけですが、我々が色んな作業所で働くようになったときに、いたるところで、ひどい食料不足に悩まされていることに、すぐに気が付きました。そこらの空き地や、道端でさえ、蔓延している食料不足を補うように野菜が植えられていたのでした。

 

到着直後、運動場での訓練を受けた苦痛の日々の後、どのように我々が、工場や港湾荷役の仕事をあてがわれ、どのように作業をこなしていき、またどのようにその環境に順応していったかは、本を読んでいただければお分かりいただけると思います。

 

私を含む、吉原製油、東洋製鋼、そして昭和電極に電車で通勤したものたちは、捕虜であるにもかかわらず、我々が通行するところでは、確かにある種特権のようなものがありました。例えば、収容所から駅まで行進して、駅のプラットフォームで、一般の日本人乗客を両側にして、捕虜のグループが並ばされますが、そのとき電車が入ってくると、誰ものっていない車両が、自分たちの真正面に停止するのです。そして、周囲にいる多くの一般乗客たちは、すでにぎっしりつまった車両に争うように駆け込んでいく傍ら、我々は空いている椅子に向かって、ゆったりと乗車しました。

 

(記憶が正しければ)我々が、西宮という駅で、電車から降りると吉原製油まで1キロほど行進をしますが、それを見た日本人の子供達が、調子をつけながら「アメリカの捕虜」とはやすのを、まったく楽しんで聞いていました。

 

吉原製油は、作業所としてはありがたい場所でした。それというのも工場では、ビタミンBを豊富に含んでいるあらゆる種(たね)類、おもに、ピーナツ(南京豆)をつぶして油を取っていましたが、それら豆類で我々の空腹を満たすことができたからです。そして、すぐにその豆類を神戸ハウスに持ち帰る方法を考え出し、港湾荷役などの作業場で働いている他の仲間たちが取ってくる食料と物々交換するようになりました。

 

三井高浜、またの名を竹井と呼んでいましたが、そこは、他の作業場と比べ働くのには最高の場所でした。それは、大日本帝国軍が侵略した国々から、持ち帰ってきた缶詰などの食料が多く運び込まれていたからです。ところが、我々オーストラリア兵よりも早く、神戸に到着していたイギリス兵が、すでにその作業所を牛耳っていました。しかし、砂糖やその他の高価な食べ物は、住友、上組、神戸船舶荷役というところから盗まれていました。

神戸ハウスで、生き残るための物々交換が行われるようになるまで、それほど長い間かかったわけではありません、なぜならお金は全く価値もなく、たばこを貨幣の代わりとして使ったからです。たとえば、30箱のたばこで、お椀一杯分の砂糖、あるいはピーナツ、または魚の缶詰一缶分と交換できました。

 

これらの物々交換については、もちろん、盗むと言う行為で捕らえられる危険を冒しながら行っていました。毎日、夕方仕事を終えたあとに検査があり、さらに神戸ハウスに到着すると再検査が行われました。この検査は、いつも行進をおこなっていた、東町とよばれていた通りで行われていましたが、単純に収容所施設内が狭かったからです。

当然、捕虜達は、盗んで隠しもっていた食べ物や、体に隠していた食べ物を見つけられたりして、しょっちゅう、殴られるなどのひどい罰を与えられました。しかし、危険に対しては覚悟のうえでしたし、盗みが見つかったならば、我々は、警備兵がどんな罰を加えてもそれを受け入れる用意はしていました。

 

私が捕虜として拘束されている間、ずっと日記をつけていました。皆さんも十分お分かりのとおり。それは絶対に禁止されていました。そのために、日記が見つからない場所を探さなくてはなりませんでした。私は、自分が寝ている床板の下に隠すことにしました。私が何か日記につけておこうとするときには、仲間にうろついている警備兵を見張ってもらいながら、その都度それを取り出すために床下にもぐりこんでいました。

 

何週間、何ヶ月かと過ぎるうちに、我々は驚くばかり自分達の日本語が上達していることが分かりました。そして、民間で働いている人たちは、我々と変わりない人たちであることも分かってきました。彼らにも妻があり、子供や家族がいて、皆、国家の命令に従わなくてはならないのです。別の言葉で置き換えれば、彼らも我々捕虜と同じような境遇にいたのです。国が、一国の政策として、国民はどのような状況をも耐え忍ばなくてはならないよう命じていました。

 

戦局が進むにつれて、日本の人々は本当に悲惨な状況に追いやられていましたが、国の政策でそのようになっていったのです。1944年と1945年の間、皆さんのすむ日本はアメリカのB29の猛烈な爆撃にさらされていました。もちろん、我々捕虜も一般の日本人同様、危険にさらされていました。 そしてとうとう、1945年6月5日の朝、神戸は百何機ものB29に爆撃を受けました。幸運にも、捕虜達はそのとき、神戸ハウスにいましたので、私は日記を取り出すことができたのです。 焼夷弾が次から次へ落ち、大きな火のかたまりが、ごうごうと周囲を燃やしていました。必然的に神戸ハウスも火の海にのまれ、我々も隣の運動場のほうへ避難しました。

 

一時間ほどのうちに、神戸の街そのものが大きな炎の塊と化して行きました。 そして、街の温度が火で上昇していくと、海の方から冷たい風が吹き、その炎が風にあおられて、猛烈な火炎となり荒れ狂っていました。

 

神戸の街の半分とともに、神戸ハウスも燃え尽きました。全収容所の施設が崩壊するまえに、最小限度のものだけをもち非難し、我々は幸運にも、命を失わずにすみました。終戦後、2、3週間たって私は、カメラを手に入れて、神戸ハウスの残骸のみを写真に収めるため、その場所へと向かいました。

 

本の中でその写真は掲載されていますが、余りいい写真ではありません。そのとき使ったフィルムは、数年前の古いものだったからです。しかし、その写真をみるときにはいつでも、私が2年間、家と呼び、住んでいたところの思い出がよみがえってきます。1945年8月15日、悲惨な戦争はついに終わりました。日本の若い男性のほとんどは、もちろん、海のむこうにいました。朝鮮半島からニューギニアにいたる極東(きょくとう)の広い地域に派兵されていたのです。ですから、日本の国民たちは、究極の苦悩の矢面にたたされていました。

 

皆様も想像されるように、捕虜たちにとっては、もう本当に、夢に見たほどの幸福感にみたされました。4年近くも故郷を離れて、ようやく、自由を得たのですから。我々は、そのとき「わきのはま」の国道ぞいにあった小学校を宿舎としていましたが、連合国の旗をその建物の屋上にかかげたのでした。

 

神戸につれてこられた捕虜は、すべての捕虜のうち、もっとも恵まれていたことは疑いもありません。帰国の途中飛行機事故で5人の仲間たちを失いましたが、日本の中で失った仲間は10人以下でした。我々が後に知ったことですが、全連合国軍捕虜の3分の1の兵士たちが戦争で生き残ることはできませんでした。彼らのほとんどが泰緬鉄道をつくるための労働で、そしてサンダカン死の行進により亡くなりました。

 

また、我々は、のちに広島や長崎の人たちがこの悲惨な戦争をすこしでもはやく終わらせるための犠牲となったことも知りました。これら2都市の人々の命は、我々捕虜の命を救ったのです。 現存している書類によると、もし連合国軍が日本に上陸した場合は、すべての捕虜たちをすみやかに処理するべきである、と書かれています。ですから、まさに、人命の賭博で、何千という人が苦しみ、また命を失ったことにたいして、何千というほかの人たちを生かしたということなのです。そしてそのとき、私は自分に問いかけました「なぜ、1945年の8月15日に、なぜ私は人命の賭博で助かる命のリストにのっていたのであろうか?」答えは、恐らく、今日皆様の前に立ち、戦争の悲惨さを語るために生き残ったにちがいありません。

 

再び私は自分に問いかけます。第2次世界大戦で灰となったところから、生じたもので、肯定できないものがあるだろうか?

 

灰から立ち上がった日本は今や、強く躍進する経済力をもった、自由な民主主義の国です。日本は今やオーストラリアのもっとも重要な貿易相手国です。何千という日本の若い旅行者たちが毎年オーストラリアにやってきて、滞在を楽しんでいます。おおくのカップルが、そこで結婚式をあげています。そして、つまるところ、私は神戸というこの街での私の経験を、帰国する前に皆様に語らなくてはならない使命を負っているということなのです。

我々捕虜の何人かは、波止場沿いの爆撃を受けた倉庫の中のどこに砂糖が保管されているかを知っていました。それで、その倉庫に押し入り、わきのはまの宿舎に持ち帰りました。このころには、我々の胃もみたされ、怖いものなど何もありませんでした。

 

青春の真っ只中、無邪気な22歳の青年だった私は、ある夜、「ざつのう」に一杯つめた砂糖を持って、女性をもとめるために街へ出かけて行きました。その砂糖と引き換えに、私はその夜、床をともにしてくれる若い女性を見つけました。詳細については、本の中の「これで性の手ほどきは終わり」の章を読んでいただければと思いますが、この経験について、しばしば思い起こすことがあります。

 

ここにいる若い女性とその同じ国民たちは、飢えに苦しむことを余儀なくされていて、恐ろしい爆撃にさらされ、住んでいる町は、灰と化してしまった。そしてそのすべては、私もその一部である彼らの敵によってもたらされたものである。にもかかわらず、この若き女性は私を、最も丁重に、敬意と同情をもって、もてなしてくれました。

 

言うまでもなく、日本の女性は世界の中でももっとも丁重で優しいと思うのです。これは、日本でしかありえません。会場におられる皆様、今日はお越しくださいまして本当にありがとうございました。後ほど、皆様がお求めになられた本に、著名をさせていただければ幸甚かと思います。

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