神戸学生青年センターとは

(※ 50周年記念誌『50周年を迎えたセンター、次の50年に向かって歩みます(2023年3月)』より

「人間の営みは、いつも場所を媒介として行なわれます。思想的、政治的なものから家庭の営みにいたるまで。
ですから、いつの時代でもおおよそ支配者が自らに批判的な人の集まりを弾圧するとき、それは場所の破壊、場所からの追放として現れました。
自由な生の営みを願うものは、何ものからも干渉されることのない場所を獲得したいと願います。私たちのセンターは、そうした願いを実現しようとする一つのアプローチです。
この園に市民共同体や文化や宗教の営みが花開くことを願っています。」

この文章は、神戸学生青年センターの最初のカラーパンフレットに、辻建氏によって書かれた趣旨文である。それから50年が経過した。この50年の歩みを振り返ってみる。

六甲キリスト教学生センターの働き

米国南長老教会外国伝道局による神戸伝道は、1897年から1903年にわたるヘンリー・B・プライスに始まるとされている。その後、1907年この地に神戸神学校が開校され(後に中央神学校となる)、賀川豊彦、富田満らがここで学び、伝道界へと送り出された。1918年には11の自給教会を設立し、東京につぐ長老教会の中心地となった。しかし1941年宗教団体法による日本基督教団の設立にともない中央神学校は1941年閉鎖、宣教師は本国送還となった。
1945年11月、日本基督改革派教会は、日本基督教団が信条を持たないこと、戦時下に神社参拝に妥協したことを理由として教団より離脱。1951年には日本基督教会が成立した。米国南長老教会は戦後、教団を含むこれら三団体と連携して日本における伝道に協力することとなった。この連携により1947年神戸改革派神学校が設立され、1955年青年伝道をめざして「六甲キリスト教学生センター」が発足した。ここでは聖書研究、英語礼拝クラス、聖歌隊、演劇、ラテン語学習などが行われて、10年間に300名以上の学生がメンバー登録をしている。
1966年世界伝道局は、活性化をもとめて六甲学生センターの伝道活動を日本基督教団の兵庫教区に委譲することを決定した。

日本基督教団兵庫教区による神戸学生センターの運営

日本基督教団兵庫教区は、この申し入れを受けて「神戸学生センター運営委員会」(委員長・沼信行のちに今井和登)を立ちあげた。1967年度の運営委員は、今井和登、沼信行、松村克己、魚住せつ、宇都宮佳果、辻建、マグルーダー。1967年5月小池基信氏が研究主事として就任し、マグルーダー宣教師がこれに協力した。同年12月登佐尅己氏とその家族が管理人として入居。この年30名分の寝具を購入。運営委員会は、センターの活動の柱として、①会員制をとらない、②宿泊設備を含む活動の場を提供する、③セミナー開催、資料室の提供を主な方針とすることにした。1966年度の決算は、米国南長老教会からの援助金60万円、施設利用料10万円、特別献金26万円等、計123万円。これを主事、管理人手当、営繕費、備品費等に当てた。
1968年センター活動2年目を迎えて、センター主催のセミナーを開催した。折から各大学で「学園紛争」が起こり、大学や学問のあり方が問われ始めたが、センターとしてこれらの問題を出来る限り共有しようと努めた。また教会においても教会革新の動きが起り始めていた。教会青年との対話の場をつくり出そうと願い、セミナーを企画して参加を呼びかけた。(1)「大学生と教師との対話」(2)学生セミナー「現代と人間」(3)牧師セミナー「今日の学生の思想と行動」(4)第2回学生セミナー「沖縄を考える」など。施設利用者も増加して、使用収入は64万円に急増した。
1969年センター活動3年目に入り、各大学における紛争は一層激しさを増していた。センターはそこでの問題を受けとめる場としての自覚に立ちセミナーを継続した。(5)第3回大学セミナー「知性の変革をめざして」(6)聖書学セミナー「聖書解釈と現代」(7)第4回大学セミナー「わがうちなる朝鮮」。また、自主的な集会もセンターで数多く行われて、主事が事務をとる場所も確保出来ないほどであった。この年度の使用グループ数619、総人数6,844名、宿泊数2,229名、施設利用料98万円と前年比の1.5倍となった。

新会館設立への道

利用者の増加に伴い、ホールの増設、集会室の改造、寝室拡充のための資金の援助を兵庫教区常置委員会に申請した。申請が受理され、南長老教会より60万円の建築費が決定した。その直後、小池主事とマグルーダー主事により学生センタービル計画が提案され、運営委員会はこの方針で進めることを了承した。
兵庫教区常置委員会は1969年10月、この件に関する公聴会を開催。それに基づいて同年11月「学生センタービル建築準備委員会」を発足させた。委員は、井坂辰雄(長)、西原基一郎、中谷繁雄、芹野俊郎、宇都宮佳果、辻建、小池基信。これに都市問題研究所がアドバイザーとして参加した。この委員会は1970年5月より「建築実行委員会」となる。
ビル建築の目的としては、より充実した活動を展開出来る施設の拡張、他からの援助を求めずに経費を自給出来る態勢を目指した。このために都市問題研究所のアドバイスをうけつつ検討を重ね、第6案を最終案として、分譲、賃貸住宅、貸店舗及び駐車場を含むマンションの一部をセンター部分とすることとなった。兵庫教区常置委員会はこの最終案を採択し、1970年6月開催の教団常議員会はこれを受けて、「学生伝道のために学生センタービルを建築するため、合衆国南長老教会(PCUS)土地の無償譲渡を得ること」の申請についてこれを承認した。
1970年12月、新学生センター建築のための起工式が行われ、センター事務所を神戸市東灘区御影城之内1478に移転。ここを仮センターとして会館完成までの1年3ヵ月、活動の場とした。
建築実行委員会は、教団との折衝により財団法人設立の方向で進めることとし、理事長を河上民雄氏に依頼することを決定した。1971年12月、常置委員会は(1)神戸学生センターの財団法人設立を承認、(2)同センター専任主事として小池基信氏を招聘することを承認した、また同年12月の第37回常任常議員会は「(1)宗教法人たる日本基督教団がこの事業をおこなうことは、現時点においては相当困難なことが明らかとなった。そこで関係者間において検討の結果、教団、教区、関係教会の当事者が役員の中心になって運営管理することが適当な方策と考えられるに致ったので、財団法人を設立すること」(2)「財団法人神戸学生青年センターの設立に伴い、下記の物件(神戸市灘区山田町3丁目1番地1、宅地1503.53㎡、同所1番地2、宅地1065.99㎡)を無償譲渡すること」を賛成多数をもって承認した。
こうして財団法人神戸学生青年センター設立委員会が発足し、1972年1月第1回委員会が開かれた。委員は河上民雄(長)、小池基信、井坂辰雄、魚住せつ、種谷俊一、西原基一郎、宇都宮佳果、辻建、岸本和世、(陪席)田原潔、南谷繁弘。「寄付行為」の文案について検討している。
1972年4月9日、財団法人「神戸学生青年センター」の開館式が行われ、新しい装いのもとにセンターが発足した。なおマンション部分についてはマグルーダー主事により「ニューライフ」と命名された。

財団法人神戸学生青年センターの発足

1972年4月9日、財団法人神戸学生青年センターは理事長河上民雄、館長小池基信のもとに開館式を行い発足した。日本基督教団は同年5月23日、これを教団関係団体として承認した。翌1973年1月、財団法人設立登記を完了した。
センター発足当時の職員は、小池基信館長のもとに辻建主事、事務職員として小林みえ子、管理人が登佐尅己であった。また、ニューライフマンションの管理には、センターの委託を受けて都市問題研究所が担当した。
センター活動は手さぐりの状態にあったが、前学生センターの経験を生かしてセミナーの開催、図書館の充実、各種文化活動のための場所の提供などを骨子として進むことにした。職員の間で研究会を行って、セミナーの内容の検討なども行った。
これらの活動費、人件費の収入源としてはマンション3件分の賃貸料、駐車場使用料、部屋の一部の定期利用料、利用者による部屋使用料などが当てられた。